織田信忠による天下統一(その2)
前回では織田家が権力を失うことになった原因を考察してみました。今回は信忠の手によって天下統一が可能だったかをどうかを考えてみたいと思います。
前回考察した通り、私は織田家が覇権を失なった最大の原因は織田一族に内部分裂が発生したことだと思っています。では本能寺の変で信忠が生き残り、実質的に織田家の家長となった場合、内部分裂が発生しない保証はあるでしょうか?
結論から言えば、後継者争いに伴う内部分裂が起こる可能性はほとんど無いと思われます。
第1の理由は、織田家の家督は本能寺の変の時点では、すでに信忠に譲られているということです。
勿論、信長自身が先代当主の指名により家督を継いだにもかかわらず、同母弟信行と戦わざるをえなくなったように、後継者争いの可能性が0だとは断言できません。しかし、信行との戦いは大名による絶対権力の確立を目指す信長と土豪連合政権の存続を望む重臣達が信行を名目上の旗印として戦った権力争いと見るべきだと思います。そのように見ると、本能寺の変の時点では大名による絶対権力の確立の度合いが信行との戦いが起こった当時とは格段に開きがあると思います。
第2の理由として、大義名分の無さです。信長と争った信行は血統的にも信長に取って代わる大義名分が成り立ちやすいのですが、信孝は生母の身分が低かったため信忠に対して反乱を起こしても大義名分が成り立ちにくいと思われます。また、史実で何故信孝が不満をいだいたかという事を考えると、後継者候補から外れていた事ではなく、後継者争いに敗れたことに不満をいだいたと思われます。勿論、偉大な父信長が生きている間は表に出せなかっただけという見方もありますが、彼が「神戸信孝」である以上、織田家の後継者たらんとして反乱を起こしても大義名分がありません。勿論、「羽柴秀勝」「遠山(津田)勝長」も同様です。信雄は彼らよりは信忠の同母弟ということで若干有利ですが、「織田」ではなく「北畠」だということがここで効いてきます。
第3の理由として、戦力がないと言うことです。信行の場合は重臣の後ろ盾がありましたが、信孝には後ろ盾となりうる人物がいません。史実では柴田、滝川と重臣の後ろ盾が付きましたが、これは織田家内部で主導権争いがあったために信孝に付いただけだと見るべきでしょう。また、信忠の死去により織田本家が持っていた領土が分割されてしまっていることも影響していると思います。信忠が生存している以上、織田本家には強大な軍事力があり、信孝が不満をいだこうとも手持ちの軍勢も十分になく、味方する勢力もありません。これは「北畠信雄」「遠山(津田)勝長」にも共通することです。つまり彼らが反乱を起こそうとしても、織田政権内の重臣達の誰の支持も得られないか、仮に誰か一人が味方したとしても織田本家及び他の重臣達との戦力差によって、反逆者として叩きつぶされる事になります。これは実際に反乱を起こした荒木村重の例から考えてもらうと非常に高い確率で的中する推測として成り立つと思います。
以上の理由から織田家の内部分裂がおこる可能性は非常に低い、また、おこったとしても内部分裂が織田家の権力維持に致命傷となる可能性はほとんど無いと見ています。
では、信忠が天下統一を成し遂げる可能性はどのぐらいあるでしょう?
この問題を考えるには、天下統一事業を推進するのに信長以外にはできないことが残っているか、また、信忠の器量がどのぐらいのものかと言うことについて考えてみなければいけないでしょう。
まず、信長でなければできないことがどのぐらい残っていたかと言うことでは、天下を統一するという一点では、もはや信長の存在を必要としないでしょう。事実、天下統一事業の完成は信長路線を継承した羽柴秀吉によって成し遂げられています。これはもはや他の大名家が組織力まで含めた総合的な実力が織田家の実力に対抗できない状態だったことを物語っていると思います。
次に信忠本人の器量ですが、彼の数少ない実績及び、ほぼ同時代の人物による彼への評価等から判断すると父にはおよばないものの後継者としては合格点を付けられるぐらいの器量は持っていたように思います。個人的には徳川秀忠や毛利輝元よりは大きな器量を持った人物と評価しても良いように思います。先代の遺産を上手く管理して維持していくことはできるでしょう。
しかし、天下統一後の日本をどのような姿にするかと言うことでは、信長が必要だったのかもしれません。史実では秀吉が統一政権を作り上げた後、成長することを前提として作り上げた組織を変革することに失敗しました。さらなる成長を目指して朝鮮に出兵したことは個人的には統一後のビジョンを持たなかった秀吉の限界だったと思います。では、信忠が跡を継いだとしたら、秀吉よりも上手く統一政権の運営ができたでしょうか?これは永遠の疑問となるだろうと思います。